2009年07月02日

福岡県福岡市東区箱崎6-10-1に本部を置く

九州大学(きゅうしゅうだいがく、英語: Kyushu University)は、福岡県福岡市東区箱崎6-10-1に本部を置く日本の国立大学九州大学は、1949年に旧制九州大学等を包括して設置された国立大学である。1867年に設立された賛生館を起源とする九州帝国大学を直接の母体としている。2003年に九州芸術工科大学を吸収、2004年に国立大学法人による設置へと移行した。

である。1911年に設置された。大学の略称は九大(きゅうだい)。

九州大学には特に建学の精神は定められていないが、「九州大学教育憲章」「九州大学学術憲章」が存在する。
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九州大学では1970年代、大学院への要請が多様化してきたことに対応するため、「学際大学院」構想を進め、総合理工学研究院を設置する[要出典]。

1991年、キャンパスの統合移転計画が決定すると、1998年に「改革の大綱案」を定め、優秀な研究者の養成と研究レベルの向上を目的とする大学院重点化を行い、2000年に学府・研究院制度を導入した。その制度は研究機関としての大学院組織を「研究院」、教育機関としての大学院組織を「学府」に分離するもので、必要に応じて簡易に組織改編ができるようになり、研究院には教員が、学府には大学院生が、学部には学部生が所属し、教員が学府や学部に出向する形で教育を行う。なお、基本的に研究院長が学府長・学部長を兼務する。2006年3月現在、この制度が全学的に導入されているのは九州大学だけであるが、部分的にはいくつかの大学で導入されている。

2009年06月13日

一次元球面(単位円周) S1 から三次元球面 S3 への

一次元球面(単位円周) S1 から三次元球面 S3 への単射連続写像 K あるいは K の像のことを結び目(むすびめ、knot)という。 ここで、三次元球面 S3 とは三次元ユークリッド空間 R3 に、一点 {∞} を付け加えたコンパクト等質空間である。
テニス
セキュリティ
花火
仏教絵画
東北地方
壁画
日用品
セパタクロー
印刷
水球
アスペルガー症候群
学習塾
ベリーダンス
北陸地方
水彩画
恐竜
水墨画
両生類
ジオキャッシング
アニマルセラピー

要するに、三次元空間の中に浮かぶ絡まった 1 つの輪っかのことを数学では結び目というのである。日常語の意味での結び目とはかけ離れているように思われるが、紐の両端をくっつけて結び目を緩めた状態を想像してみると、なぜ上で言うようなものが数学で結び目と呼ばれるのか、実感できることと思われる。

結び目は絡まった輪っか一つだけである。二つ以上の結び目が互いに絡まりあったものを考えたほうがいろいろと便利であることが多いので、それを絡み目(からみめ、link)と呼ぶ。正確には結び目と同様に次のように定義される。

いくつかの一次元球面の集合としての直和 S1 ∪ S1 ∪ … ∪ S1 から 三次元球面 S3 への単射連続写像 L あるいはその像のことを絡み目と呼ぶ。絡み目の連結成分の数を単に絡み目の成分数と呼ぶ。すなわち n 個の S1 の直和を埋め込んだ絡み目の成分数は n である。

有名な絡み目としてはホップ絡み目、ホワイトヘッド絡み目、ボロミアン環などが挙げられる。

結び目を切ったり貼ったりしている間に絡み目が現れることがあり、結び目のみを研究の対象とする場合でも絡み目を合わせて考えるほうが自然であることも多い。

絡み目の定義を少し変形拡張した概念が幾つか提唱され、特に以下のものは活発に研究されている。

組み紐----領域 に複数本の「ひも」[0,1] を(高さに関して)臨界点を持たないように埋め込んだもの。群構造をもつので代数的な視点からの研究が多い。
空間グラフ----S1 の代わりにグラフを埋め込んだもの。
タングル----境界つき三次元多様体に一般のコンパクト一次元多様体を埋め込んだもの。圏構造を持つ。
仮想結び目----結び目の組み合わせ的な表示であるガウス図を考察対象としたもの。ガウス図上では交点と認識されないが、三次元空間への実現で交差として描かざるを得ない「仮想的交差」を持つ。

2009年06月09日

因果関係の妥当性(criteria of causal association)は

因果関係の妥当性(criteria of causal association)は、記述疫学の結果を分析疫学で分析する前に、「少なくともこれは満たしていなければ仮説としておかしい」と言う基準である。妥当性を検証する基準は諸説あり、Kochの3(4)原則、Evansの8条件、Hill の9基準(視点)等がある参考文献5。Surgeon General(米国公衆衛生局長諮問委員会)の5基準を以下に示す。
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関連の一致性(consistency)
違う国、違う時代でも同じ事が起こるか(人、場所、時間の関連に普遍性があるか)
例1:X社製パソコンを使いさえすればAさんでもBさんでも営業効率が上がるか
例2:X教の壺を買いさえすればAさんでもBさんでも金運が上がるか
関連の強固性(strength)
効果が定量的か(量-反応関係が成立するか)
例1:X社製パソコンを導入すればするほど営業効率があがるか
例2:X教の壺を買えば買うほど金運が上がるか
関連の特異性(specificity)
原因のある所に結果があり、結果のある所に原因があるか
例1:X社製パソコンを使った人の効率が上がり、且つ、効率が上がった人はX社製パソコンを使っているか
例2:X教の壺を買った人は金運が上がり、且つ、金運が上がった人はX教の壺を買っているか
関連の時間性(temporality)
原因→結果の順になっているか
例1:X社製パソコン→営業効率上昇の順になっているか。
営業効率の上がった人が後からX社製パソコンを導入しただけではないのか
例2:X教の壺→金運上昇の順になっているか。
金運の上がった人がお金が出来て後からX教の壺を買っただけではないのか
関連の整合性(coherence)
既知の知識体系と矛盾しないか
例1:一般にパソコン導入は効率があがるのか
例2:一般に壺の購入は金運が上がるのか
記述疫学で立てた仮説が因果関係の妥当性を満たしていたら、次に分析疫学で解析する。

2009年04月25日

ディオクレティアヌスとマクシミアヌス

305年3月1日、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスは揃って引退した。これはマクシミアヌスが望んだ行動で無いことは明らかで、ディオクレティアヌスが強いたことだった。マクシミアヌスアはカピトリーノのユピテル神殿において、同僚と共に引退するという誓言を立てた。コンスタンティウス・クロルスと(東の)ガレリウスとが新しい正帝となり、フラウィウス・ウァレリウス・セウェルスとマクシミヌス・ダイアとがそれぞれの副帝となった。マクシミアヌスはルカニアかカンパニア辺りの自領地で引退生活を送った。

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2度目と3度目の皇位復帰
翌年コンスタンティウスが亡くなり、マクシミアヌスの息子マクセンティウスが西ローマ帝国を掌握した(306年10月28日)。対外的に正当性を繕うために、マクセンティウスはマクシミアヌスに正帝を名乗らせた。マクシミアヌスはセウェルスとガレリウスを戦いで破り、コンスタンティウスの息子コンスタンティヌス1世に娘ファウスタを嫁がせることで味方につけた。

しかし、このときのマクシミアヌスの役割は、真の権力者マクセンティウスを覆い隠すことだった。そして308年、老巧な正帝マクシミアヌスは実の息子に反乱し、ローマに向けて軍を進めたが、敗れ去った。ディオクレティアヌスはマクシミアヌスに援軍を送ることは断り、カルヌントムで会合し、マクシミアヌスにコンスタンティヌスを連れてガリアに逃避させた。

310年、コンスタンティヌスがフランク人の反乱を鎮圧するために軍団の一部を連れて行ったとき、マクシミアヌスがまたしても紫の帝衣を纏う機会が訪れた。マクシミアヌスは恩賞金(donativum)によって軍団を手なずけ、3度目となる皇帝を名乗った。しかし、コンスタンティヌスはすぐに引き返しアレラーテにて義父を包囲し、これにマクシミアヌスは持ちこたえることができなかった。マクシミアヌスはマッシリアに逃亡したが再び敗れ、牢に入れられ退位した。

最期
マクシミアヌスは紫の帝衣は剥奪されたが、コンスタンティヌスに対し反乱したことは恩赦を得て、彼の宮廷に居住することを許された。

後にマクシミアヌスは、コンスタンティヌスの暗殺を企てたことによって命を落とした。マクシミアヌスは娘のファウスタに暗殺を手伝わせようとしたが、ファウスタは夫のコンスタンティヌスにこの企てを暴露したため、計画が露見した。自殺か暗殺かは不明だが、マクシミアヌスは同じ310年の6月に死亡した。

称号
マクシミアヌスは自身や同僚の戦勝の功により次の称号を得た:5回の征ゲルマン将軍(Germanicus Maximus V;287年に2回、288年、293年、301年)、3回の征サルマタイ将軍(Sarmaticus Maximus III;289年、294年、300年)、征アルメニア将軍(Armeniacus Maximus、298年)、征メディア将軍(Medicus Maximus、298年)、征アディアバネ将軍(Adiabenicus Maximus、298年)、2回の征ペルシア将軍(Persicus Maximus II、295年、298年)、征カルピ将軍(Carpicus Maximus、297年)、征ブリタンニア将軍(Britannicus Maximus、297年)

また、マクシミアヌスは執政官に9回選出された(287年、288年、290年、293年、297年、299年、303年、304年、307年)。

2009年04月08日

タンゴ

タンゴはアルゼンチン・ブエノスアイレスやウルグアイ・モンテビデオのダンスおよび音楽。および、それを擬したダンス・音楽で、音楽業界から「タンゴ」と公認されたもの。

ポピュラー音楽及びダンスの一形態で、カンドンベ、ミロンガ、ハバネラなど複数の音楽が混ざり合って19世紀半ばにブエノスアイレス、モンテビデオ近辺のラ・プラタ川流域で生まれたとされる。

日本では、タンゴがヨーロッパに渡って変化したものをコンチネンタル・タンゴ(コンチネンタル=大陸の=ヨーロッパの)ないし「ヨーロッパ・タンゴ」と呼び、それに対して元来のものをアルゼンチン・タンゴと呼んで区別することが多い。日本でのタンゴの普及は、戦前(昭和初期)にアルゼンチンから一部移入がされたものの、その後戦後にかけて移入したのは、むしろヨーロッパからムード音楽の一環としてのそれであり、所謂「コンチネンタル・タンゴ」の類であった。すなわち、競技ダンス・社交ダンス(ソシアルダンス)で用いられる一ジャンルのタンゴのための舞踊音楽であった。よって、長らくタンゴと言えばマランド、アルフレッド・ハウゼといったイメージで、多くの場合理解されていた。

ただし、いったん上記の競技ダンスや社交ダンスが一般的には下火になっていた1980年代後半、米国で成功した「タンゴ・アルヘンティーノ」公演が日本にも移入し、これ以降、アルゼンチン・タンゴが普及するようになった。

リズムの特徴 [編集]
全般的に鋭いスタカートを多用する。2/4拍子ないし4/8拍子で、後年4/4拍子でも書かれる。以下4/4拍子で説明する。

第一拍のアウフタクトに深い「溜め」をおく。
第一拍、第三拍に強烈なスタッカートをおく。これを徹底するとオスヴァルド・プグリエーセの『ラ・ジュンバ』(La Yumba)になる。
アバネラ (Habanera) のリズムも用いられる。
これらを滑らかにスピードアップすると、アストル・ピアソラの3, 3, 2のリズムに違和感なく到達する。
このように強靱なリズム体の上に、ロマンティックな、時としてメランコリックな主旋律が泣くのがタンゴの魅力である。

演奏形態 [編集]

アルゼンチン・タンゴの演奏形態 [編集]
バンドネオンが用いられる事が特徴である。また、非常に鋭いスタカートでリズムを刻むにも関わらず打楽器を欠く。

オルケスタティピカ(ヴァイオリン(3人以上)、バンドネオン(3人以上)、ピアノ、コントラバス)「標準編成の楽団」の意。
キンテート(バイオリン、バンドネオン、ピアノ、コントラバス、ギター各1)「五重奏団」の意。
バンドネオンなしの演奏もある。ギターの伴奏と歌によるタンゴも、カルロス・ガルデルらが録音を残し高く評価されている。そもそも、タンゴは、バンドネオンなしから始まった民俗音楽である。

アストル・ピアソラの作品のように、クラシック音楽の演奏家により、クラシック音楽のスタイルで演奏されるものもある。特に、1950年代後半頃から、アコースティクギターなどが使われことも出てきた。かつ、「タンゴのイメージに合っていない」という苦情が寄せられることもしばしばであるが、いろいろな解釈の演奏が行われ聴衆から広く支持を受けつつある。

コンチネンタル・タンゴの演奏形態 [編集]
バンドネオンの代わりにアコーディオンが用いられることが多く、楽器編成も通常のポピュラー音楽での管弦楽編成に近い。ムード音楽的演奏から、マランドのように歯切れの良いリズムを重視したアルゼンチンスタイルに近い演奏までさまざまである。

演奏および解釈について [編集]
タンゴでは、作曲者の作ったメロディーは大切にされるものの、演奏する楽団の編曲により、新たな旋律や副旋律がつけられたり、変奏 variación がつけられたりすることが当然のようになっている。

たとえば、ラ・クンパルシータは、ヘラルド・マトス・ロドリゲスの作曲したメロディーの他に、ロベルト・フィルポが付け加えた中間部が好評を呼び、著名度が高いタンゴとなった。

タンゴについては、やはり演奏する楽団の編曲の良し悪しが、聴いている聴衆の満足度につながるものとされる。

なお、楽譜からはずれる即興演奏は、避けられる方向であったが、アストル・ピアソラのように即興演奏を好むタンゴ演奏家もいる。

アストル・ピアソラやそれ以降の楽団のモダンタンゴの解釈については、古くからのタンゴ愛好家で違和感を覚えるような声が多くあった。その一方で、そのモダンタンゴに感銘を覚えるタンゴ愛好家も増えてきている。

ルリマ カントリー おいずり ファラオ オーチャ バイバル ロカアォ パーカー トリミン ティラピ オール リージョ ダリア ドゥー ラーゲ ジフ スピコン プロテーゼ ツィリング アフロ 月下美人 シュート ソムリ レイド エアポ ピンポ レーキ パナビ いまかね ドレッ あかんち モルツ カイア スキッ チャートポ ベガス 紅葉 華ごころ リスト サーボ サイト紙燭 テレメ パステ コース オーナブリ ダット サーチアウト すなのみ ブールマ リーダー

2009年03月24日

国鉄デハ6340系電車

デハ6340系は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道院、鉄道省に在籍した直流用電車を便宜的に総称したものである。

本項では、デロハ6130形、デハ6340形、クロハ(サロハ)6190形、クハ6420形、デハユニ6450形およびこれらの改造車について取り扱う。

本系列は、1914年(大正3年)から1918年(大正7年)にかけて、東海道本線(京浜線)の電車運転用として製造されたもので、従来の中央線・山手線用の系列とは、車体長・車体幅・集電装置・主電動機出力など、あらゆる面で一線を画するものである。

車体形状は、妻面が平妻非貫通型の3枚窓、側面には車体端部に寄せて片側2箇所に客用扉が設置されており、全ての扉が引戸となっている。屋根は車体全長に及ぶモニター形である。車体幅は8フィート6インチ(2700mm)と幅が広くなり、車体長も電動車が50フィート(15240mm)であったのに対し、付随車は52フィート11インチ(16240mm)と長くなった。前面は平妻非貫通の3枚窓であるが、反対側は開き戸方式の貫通扉が設けられている。

集電装置には、日本の国有鉄道では初めてパンタグラフを使用したが、架線と接する部分がローラー式で、開業当日に大きな問題(後述)を引き起こした。通風器は、モニター屋根側面に水雷型のものが設置されている。電動機はゼネラルエレクトリック(GE)社製GE-244A[1]で、架線電圧は直流600V・1200Vの複電圧仕様[2]、これにより電動発電機を駆動して制御用の600V電源を得ている。制御器はGE社製の電空カム軸式自動加速制御器であるMAコントロール[3]、ブレーキはGE社製のJ三動弁によるAVR自動空気ブレーキ、台車は、新設計の釣合梁式である大正3年形(電動車用TR14=DT10、付随車用TR11)である。

本系列の電動車は基本的に片運転台で製造されており[4]、車体も前後非対称であったため、運転台の向きにより区別を行う必要が生じた。さらに検修上の要請から、床下機器の配置を運転台の向きにかかわらず一定としたため、上り(東京)方に運転台があるものに奇数番号、下り(桜木町)方に偶数番号を付与した。この慣例は、その後に製造された電車にも連綿と受け継がれ、国鉄が民営化された後の最新形電車にまで踏襲されている。

本系列は、デロハ6130形20両、デハ6340形24両、クロハ(サロハ)6190形21両、クハ6420形4両、デハユニ6450形6両の計75両が製造された。

基本形式 [編集]

デロハ6130形 [編集]
1915年の京浜線運転開始にともなって、1914年度に製造された二等三等合造制御電動車である。側面窓配置は1D12222221D1。車内は前位は三等室、後位は二等室に区分され、両室の間には仕切り壁が設けられている。座席は両室ともロングシートであるが、二等室のものは奥行きの深いものである。定員は二等24人、三等51人(うち座席26人)である。

本形式の製造状況は、次のとおりである。

1914年度(20両)
汽車製造支店 : 6130 - 6134(5両)
鉄道院新橋工場 : 6135 - 6144(10両)
鉄道院大宮工場 : 6145 - 6149(5両)

デハ6340形 [編集]
デロハ6130形の姉妹形式で、こちらは全室三等車である。車体もほぼ同形(ただし、後位側車端部の小窓がない)で、車内に仕切り壁がない程度である。製造の状況は次のとおりである。定員は103人(うち座席56人)である。

1914年度(20両)
汽車製造支店 : 6340 - 6351(12両)
日本車輌製造 : 6352 - 6359(8両)
1917年度(4両)
鉄道院大井工場 : 6360 - 6363(4両)

クロハ(サロハ)6190形 [編集]
京浜線運転開始にともなって製造された二等三等合造中間付随車である。側面窓配置はD12222221Dで電動車とほとんど変わらないが、車体が長い分窓吹き寄せ部が広い。最初の10両の製造当初は、中間付随車と制御付随車の記号が区分されておらず、クロハ6190形と称したが、1915年に中間付随車の記号「サ」が制定されたため、サロハ6190形と改称された。さらに1917年(大正6年)には3両増備、同年には後述のサハ6420形からの改造車が4両が加わり、1918年(大正7年)には8両が増備され、全25両が出揃った。

定員は二等26人、三等56人(うち座席30人)である。

本形式の製造の状況は次のとおりである。

1914年度(10両)
日本車輌製造 : 6190 - 6199
1917年度(7両)
鉄道院大井工場 : 6200 - 6202(3両)
同上改造 : 6203 - 6206(4両改造。旧形式クハ6420形)
1918年度(8両)
日本車輌製造 : 6207 - 6214

クハ6420形 [編集]
1916年(大正5年)に製造された三等制御付随車である。車体はクロハ6190形と同形で、第一次世界大戦の影響で電装品の輸入が途絶したため、デハ6340形に不足を生じ、仮「クハ」として製造されたものである。1917年にデハ6340形4両が製造されると、サロハ6190形(6203?6206)に改造され、形式消滅した。製造所は、すべて鉄道院大井工場である。

デハユニ6450形 [編集]
本形式は、日本の国有鉄道において初めて登場した郵便物取扱施設を持つ電車である。車内は前位から運転室・荷物室・郵便室・三等室に区分されている。側面窓配置は1d1D(荷)11D(郵)12221Dで、定員は51人(うち座席28人)、荷物室荷重2t、郵便室荷重2tである。

製造の状況は次のとおりであるが、1920年(大正9年)度製造車は、設計を従来からのヤード・ポンド法からメートル法に改めており、細部の寸法が異なる。

1916年度(2両)
鉄道院大井工場 : 6450, 6451
1917年度(2両)
鉄道院大井工場 : 6452, 6453
1920年度(2両)
鉄道院大井工場 : 6454, 6455

京浜線開業時の大失態 [編集]
1914年(大正3年)12月18日に東京駅が開業したのを機に、12月20日から東京?高島町間に本系列を使用して電車が運転されることとなった。この開業日は、建設工事とは全く関係ない要因により設定されたもので、12月18日に東京駅の開業式典を行い、青島攻略戦の凱旋将軍神尾光臣中将を品川に出迎えて東京へ送り、貴族院と衆議院の議員らを東京から横浜まで試乗させる手筈であった。

東京?品川間については、既に電化されていた区間であり、何の問題も生じなかったが、品川以西の新線区間に乗り入れた途端に架線事故が続発することとなった。東京を出発した最初の電車ばかりか、その次もそのまた次の電車も横浜に到着しないということで、関係者を向かわせたところ、一番電車は子安付近で、その次の電車は大森?蒲田間でいずれもパンタグラフを架線に引っ掛け、運転不能になっているのが確認された。横浜行きの一番電車が目的地に到達するのに2時間あまりを要したという。翌日、鉄道院総裁名で新聞に謝罪文が掲載された。

原因は、突貫工事により路盤の地固めが不十分であったこと。その上を走行する重量級の電車が大きくローリング(横揺れ)したり、曲線区間における架線の張り方の不備によりパンタグラフが架線から外れ、架線との接触部をローラーとしたパンタグラフの押し上げ力不足により復帰に時間がかかり、アークが発生して架線が切断されたことなどであった。

京浜線は12月26日をもって運行を中止し、不具合を是正することとなった。この改修には約4か月を要し、運行が再開されたのは翌1915年(大正4年)4月10日のことであった。これにより、本系列のローラー式パンタグラフを通常のシュー式に交換している。

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2009年03月08日

イタリア戦争・ユグノー戦争

15世紀末、シャルル8世はイタリアへの勢力拡大を図ってイタリア戦争を引き起こした。これに対してハプスブルク家も対抗して出兵したことが、18世紀半ばまで続くフランス王家(ヴァロワ家、ブルボン家)とハプスブルク家の間の対立の端緒となった。16世紀前半、神聖ローマ皇帝の座をねらったが叶わなかったフランソワ1世は、当時ハプスブルク家と対立していたオスマン帝国のスルタンスレイマン1世との連携まで行って、ハプスブルク家の皇帝カール5世と抗争を続けたが、結局はハプスブルク家優位のままイタリア戦争は終結した(カトー・カンブレジ条約)。16世紀後半になると、既にスイスのジュネーヴで高まっていたカルヴァン派の影響がフランス国内にも及び、ユグノー(カルヴァン派)の対立が深まり、30年以上にわたる内戦となったユグノー戦争が勃発した。1572年のサン・バルテルミの虐殺に見られるように、新教・旧教両勢力の対立は先鋭化していき、ついに1589年にはフランス王アンリ3世がパリで暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。

1589年、ユグノー戦争におけるカルヴァン派側の首領であったナヴァール王アンリが、フランス王アンリ4世として即位し、ブルボン朝が成立した。アンリは、カルヴァン派の立場を貫くことで政情が混乱することを懸念し、1593年にカトリックに改宗した。その上で、1598年には宗教的寛容を定めたナントの勅令を出し、個人の信仰の自由を認めて、30年以上にわたって続いたユグノー戦争を終わらせた。しかし、1610年に狂信的カトリック教徒の凶刃に倒れ死去した。
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次王ルイ13世は、宰相リシュリューの補佐のもとでさらに王権の強化を推し進めた。1615年からは三部会も開催されず、官僚制・常備軍の整備はさらに進んだ。1618年より中欧で起こった三十年戦争では、自国のカトリックという宗教的立場よりも国益を最優先として新教側を支援し、ブルボン家の勢力拡大を図った。1643年にルイ13世が死去したことで、まだ5歳だったルイ14世が即位したが、宰相のマザランがよく補佐した。1648年には三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約(独語:ヴェストファーレン条約)でアルザス地方とロレーヌの3都市を領土に加えた。同年に、これ以上の王権強化を懸念した貴族らによってフロンドの乱が起こったが、1653年までに鎮圧された。このフロンドの乱と同時期に、イングランドではピューリタン革命で王が処刑されているのと対照的である。

1661年、ルイ14世を補佐していた宰相マザランが死去し、ルイ14世の親政が始まった。さらなるブルボン家の勢力拡大を図ったため、一層の財政充実がもとめられ、財務長官のコルベールがその任にあたった。彼は、休眠中であったフランス東インド会社を再建させ、王立特権マニュファクチュアを通じて国内産業の育成を図るなど、重商主義政策を推進した。一方で対外政策としては、ネーデルラント継承戦争に見られるように、相次いで領土拡大戦争を起こした(自然国境説という説明がなされることがあるが、当時の概念ではなく19世紀の歴史家による恣意的な解釈である)。

当初、イングランドのステュアート朝(革命中に王族を保護していた)と友好的だったため、英仏の王朝的関係は良好(英議会とは不仲)であったが、ネーデルラント継承戦争のさなか、名誉革命によってオランダ総督・オラニエ公ウィレム3世がイングランド王ウィリアム3世として即位してしまったため、対英関係は完全に悪化した。

ライン川流域のプファルツに対して起こしたアウクスブルク同盟戦争(プファルツ継承戦争)でも、国際的な対ブルボン家包囲網が形成されるなど、覇権を追い求めるルイ14世はヨーロッパにおける外交的孤立を余儀なくされていった。スペイン・ハプスブルク家の断絶に乗じて起こしたスペイン継承戦争では、ユトレヒト条約でスペイン・ブルボン家を承認させるという成果を得たものの、北米大陸でアカディア、ハドソン湾などの領土を喪失したことや、イギリスにスペイン・ブルボン家のアメリカ大陸領におけるアシエント権(奴隷貿易独占権)を認めるなど打撃も大きかった。

2009年02月20日

暗黒星団帝国

暗黒星団帝国(あんこくせいだんていこく)は、『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』(以下、『新たなる旅立ち』)及び『ヤマトよ永遠に』に登場する架空の星間連合国家。
チルー オストメ ミモレ サイド ジャック プレクリ スコポフ きゅうてい スパイス ウフジ ラップ トーシュズ サイレン ノーカ キンセン チャイルド スター ホンコン デックス きゅう メトセク ルーキー バリヤー シュルレ フォトス フィブリン トリプタン ソユーズ ワゴン シェア すあわ ステージ ボケSEO ムルロ グルベド どふぇ ユニオ スマッ ブレテ アイス テーブル ファシズム 男船日本 未来地図 端玉アク シブシップ 長崎赤 ケイトウ モンゴ サイフォン

国家元首は『新たなる旅立ち』では、グレートエンペラー[1]。『ヤマトよ永遠に』においては、聖総統スカルダー。

『宇宙戦艦ヤマト』シリーズで、地球を制圧し占領した唯一の国家である。

暗黒星団帝国の金属・元素は、原子振動数の関係のためか、波動エネルギーのタキオン粒子と過剰に反応する為、波動砲を持つヤマトの存在を恐れていた[3]。それゆえ、波動エネルギーを防ぐ、自動惑星ゴルバなどのコーティング技術、新波動砲も効かない超合金などを実用化している。しかし、一旦破られると波動エネルギーに対して極めて脆い面を露呈する。

デザリアム星
暗黒星団帝国の本星。地球から40万光年、大マゼラン星雲から約57万光年の距離にある、黒色銀河と白色銀河からなる二重銀河の中にある惑星。

200年後(2402年)の地球に偽装し、惑星の外観はもちろんのこと、スフィンクスや万里の長城などの古代遺跡からクラシック音楽などの古代芸術まで忠実に再現していた。その後、新波動砲によるグロデーズ艦隊の爆発で偽装が剥がれ正体を現す。それは、肋骨のような姿をし、網目状の堅牢な装甲を持った人工天体であった。惑星の中心核からパイプを介してエネルギーが供給され、中心核内部には水晶都市があり、南北の両極にここへの出入り口が存在する。

防衛兵器として収納式の大型砲と要塞化された浮遊隕石[4]が無数に配備され、近付くのは容易ではない。水晶都市はガミラス帝国の天井都市のように大型ミサイルとなっており[5]、極地の出入り口から敵が侵入した場合はこれで迎撃する。

内部には人手があまりいないようで、内部破壊工作をしているサーシャをスカルダート自ら探していた。

外部リンク デザリアム星
暗黒星団帝国人
暗黒星団帝国の人々は頭部のみが生体で、首から下がサイボーグ化している。これは、高度な機械文明によって人間は脳だけ使用し、あとは機械で補うようになったためで、その弊害として肉体的に退化し、種としての生命力が衰え、生命体としては末期的な状況であった[7]。

男性の肌は、『新たなる旅立ち』では灰色であったが、『ヤマトよ永遠に』ではガミラス人より幾分濃い、暗青い灰色に変更されている。強膜(いわゆる白目と呼ばれている部分)は青色(スカルダートのみ赤色で)で眉毛が無い。頭髪がない人物が大多数を占め、頭髪を生やしている人は少ない。唇の厚く顎が角ばった顔立ちが多数見られ、メルダーズやアルフォンのように細面は少数。女性はサーダしか登場せず、肌色に白目と彼女の外観が地球人と同様なのは、性差なのか異民族出身なのかは不明である。

暗黒星団帝国軍
暗黒星団帝国軍人の制服(サイボーク化された身体)は、『新たなる旅立ち』においては肌の色と同じで、全裸のような外観になっていたが、『ヤマトよ永遠に』では基本黒色に変更されている。また、両作共階級に関わらず、黒色のマントを羽織る。また、ヤマトを味方のゴルバ型浮遊要塞ごと葬ろうとするなど、任務遂行のためにはいかなる犠牲をいとわない冷酷な面も見受けられる。

艦艇などの光線の色は『新たなる旅立ち』では緑がかった黄色であったが、『ヤマトよ永遠に』では橙色に統一されている[9]。暗黒星団帝国の艦隊は、地球側から「黒色艦隊」と呼ばれていた。

『新たなる旅立ち』
西暦2201年、宇宙間戦争遂行に必要なエネルギー獲得のため、マゼラン方面軍を派遣。星間戦争に使用する目的で、ガミラス星で放射性物質ガミラシウム(ほぼ同様の組成を持つ物質であるイスカンダルの放射性物質イスカンダリウムも併せて)を採掘作業中に、故郷に一目別れを告げに来た総統デスラーの怒りを買い、ガミラス残存艦隊の攻撃を受ける。この戦闘で作業船団と護衛艦隊が全滅し、戦火の影響でガミラス星が爆発する。

イスカンダルに向かうガミラス艦隊に、デーダー率いる帝国第一艦隊が報復攻撃を加えて追い詰めるが、救援に駆けつけたヤマトによって巡洋艦隊が全滅される。デーダー座乗の艦隊旗艦プレアデスもヤマトの波動砲で失う。

その後、マゼラン方面軍総司令メルダーズ座乗の自動惑星ゴルバによる圧倒的な力で、ガミラス艦隊とヤマトに事実上勝利する。スターシャの提案によりゴルバがイスカンダルへ降下するが、スターシャの自爆によりゴルバはイスカンダルごと消え去り、目的であったガミラシウム・イスカンダリウム採掘を阻害された。

なお、グレートエンペラーはメルダーズに対して地球侵略を示唆する発言をしていた。

『ヤマトよ永遠に』
西暦2202年、重核子爆弾を地球に送り込み、カザン率いる地球攻略軍が地球を奇襲攻撃し占領する。侵略の目的は、蔓延する生命活力の減退を打破すべく、重核子爆弾によって地球人類を脳死させ、健全な生身の肉体を手に入れるためだった。

運良く太陽系を脱出したヤマトによって、暗黒星団に配備した前線補給中間基地を一方的に攻撃されて消滅。暗黒銀河(ブラックギャラクシー)にて、地球から追撃した地球攻略艦隊がヤマトと会戦し、その後、ゴルバ型浮遊要塞群に追い込む。ヤマトに猛攻撃をかけるが、1隻のゴルバに波動カートリッジ弾を撃ち込まれて爆発し、全てのゴルバへと誘爆して全滅する[10]。波動カートリッジ弾の威力に似合わないこの大戦果が真田志郎に疑問を与えることになる。

白色銀河に出たヤマトは、200年後の地球に偽装していたデザリアム星に接近する。聖総統スカルダートはデザリアム星に上陸してきたヤマト乗組員に、ヤマトが地球に帰還しなかったという模造した歴史を見せ、降伏を促す。しかし、ヤマトは在留を希望するサーシャを星に残して地球へと飛び立ったため、スカルダートは5隻のグロデーズを差し向け、模造した歴史通り葬ろうとする。しかし、上陸した乗組員によって偽装が暴かれ、士気を取り戻したヤマトに新波動砲を撃たれ、グロデーズ艦隊を殲滅され、その爆発がデザリアム星にまで及び、星表面を火の海になる。この光景から、波動エネルギーが星のエネルギーと融合して大爆発を引き起こすことを真田は知る。だが、デザリアム星は表面の偽装が剥がれたのみで本体は無傷であった。

同時間、地球では森雪を中心としたパルチザンによって重核子爆弾本体の起爆装置を解体され、サーシャによってデザリアム星の起爆装置を破壊されたため、一時的に重核子爆弾が起爆不能にされる。星外部の要塞の攻撃を撥ね退けたヤマトは、サーシャの手引きで中心核にまで侵入したため、星内部の水晶都市のミサイルで迎撃する。その後、スカルダートはサーシャを見つけ出し銃殺。自身も銃創を負い、虫の息になりながら出入り口を閉めようとするが、ヤマトに波動砲を発射される。中心核と波動エネルギーが融合してデザリアム星は爆風に包まれ、その爆発で二重銀河も崩壊し、新たな銀河が誕生した。

主要人物
スカルダート 聖総統(『ヤマトよ永遠に』時の国家元首)
グレートエンペラー[1] (『新たなる旅立ち』時の国家元首)
サーダ 聖総統の側近
メルダーズ(ゲームでは「メルダース」) マゼラン方面総司令官
デーダー マゼラン方面第一艦隊司令官
カザン 黒色艦隊司令兼地球占領軍総司令長官
グロータス 浮遊要塞総司令官(ゲームでは「遊動艦隊司令官」)
グロデーズ艦長
アルフォン 地球占領軍技術部情報将校(少尉)

ゲームオリジナル
サーグロス 帝星近衛軍・黒色艦隊総司令官
ミヨーズ 地球侵攻軍・第二特務艦隊司令官
クーギス 恒星エネルギー資源採掘艦隊左翼指揮官(大佐)

所有艦船
巨大戦艦
プレアデスとガリアデスの2隻。プレアデスは『新たなる旅立ち』に、ガリアデスは『ヤマトよ永遠に』で登場。
黒色戦艦グロデーズ
巡洋艦
護衛艦
巨大宙母
巨大輸送艦
作業母艦
作業艦
加工艦
輸送艦

宇宙要塞
自動惑星ゴルバ
ゴルバ型浮遊要塞
前線補給中間基地
『ヤマトよ永遠に』に登場し、劇中では「黒色艦隊前線補給中間基地」と表示されていた。円盤状の土台にデザリアム星の水晶都市のようにクリスタル状の建造物があり、滑走路やドーム型のドックを備え、多数の艦載機や艦艇を収納しており、無数の自衛用火器を備える。全体が巨大な宇宙空母となっているといえる。ヤマト艦載機の索敵によって暗黒星雲に配備されているところを発見、コスモタイガー隊によって艦載機と艦艇、基地内部を破壊され、基地が動き出したところをヤマトの砲撃によって大爆発を起こして消え去った。ゲームでは何基も登場する。

航空機・宇宙艇
イモ虫型戦闘機
新イモ虫型戦闘機
円盤型戦闘機
新円盤型戦闘機
戦闘爆撃機
戦闘ヘリ

陸上兵器・地上部隊
掃討三脚戦車
パトロール戦車

兵器・関連技術
重核子爆弾
無限ベータ砲

2009年02月04日

佐竹氏(さたけし)は日本の武家

佐竹氏(さたけし)は日本の武家。清和源氏の河内源氏の流れをくみ、常陸源氏とも称される。

佐竹氏は逸見氏、武田氏、小笠原氏、南部氏などと同じく源頼義の子で源義家の弟の源義光の子孫である。佐竹氏の初代当主については、義光の子の源義業とする説と、義業の子の源昌義とする説があるが、昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)に住み地名にちなんで「佐竹」を名乗ったことから昌義を初代当主とする説が一般的である。なお、家名については、常陸太田市にある佐竹寺で昌義が節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称したという話が伝わっている。
キシラン ノート ローズ マッハ リボ デリバラ 田舎国 ゴマナ ゲート フォトモ ザンス カッコー コッチ チリン シャー タジーン メーカ ディング モード アップ クロゼ レイオ モラトリ ダイキリ サイリウム レセプト クオリア ロトロン シーラーズ プルマン タリフレ ハッチ カップ ブローシャー オレキシン タバーン ノード ビッシング ヒットラー タッチ きくま 深呼吸 ゾディア はつう パラコート マスコ 和銅 しちの トラック ビヨウ

平安時代?鎌倉時代
平安時代の後期には、佐竹氏は既に奥七郡と呼ばれる多珂郡・久慈東郡・久慈西郡・佐都東郡・佐都西郡・那珂東郡・那珂西郡など常陸北部七郡を支配し、常陸に強い勢力を持つ大掾氏との姻戚関係をもとに強い勢力基盤を築いていた。また、中央では伊勢平氏と、東国では奥州藤原氏と結び、常陸南部にも積極的に介入するなど常陸の有力な豪族としての地位を確立していた。

治承・寿永の乱においては、佐竹氏は清和源氏の一族にもかかわらず平家に与したために源頼朝によって所領を没収された。後に頼朝に従って奥州合戦に加わった。その際に無地の白旗を持参したところ、頼朝の旗と等しかったことから紛らわしいとの理由で、白旗に扇を旗の上に付けるよう命じられた。この扇は月を描いており、以後、佐竹氏は家紋として「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)を用いることになる。

鎌倉時代においては、奥七郡への支配権は宇佐見氏、伊賀氏、二階堂氏などに奪われ、後に北条氏などがそれらの郡の地頭職を獲得し、佐竹氏は不遇の時代を過ごすことになる。

室町時代
室町時代になると、佐竹氏は早々と足利氏に呼応したことから守護職に任ぜられたものの、鎌倉公方を主君としたことで足利将軍家と鎌倉公方の争いに巻き込まれることも少なくなかった。佐竹氏は鎌倉府の重鎮として活躍し、第3代鎌倉公方の足利満兼より関東の8つの有力武家に屋形号が与えられ関東八屋形の格式が制定されると、佐竹氏もこのひとつに列せられ、以後、佐竹氏の当主は「お屋形さま」の尊称を以って称された。

しかし、佐竹氏宗家の第11代当主の佐竹義盛に男子がなかったことから、藤原北家の勧修寺流の流れをくむ関東管領の上杉氏より佐竹義人が婿養子に迎えられて第12代当主となると、佐竹氏の庶家で佐竹の男系の血筋を引く山入氏はこれに反発し、宗家に反旗を翻すこととなった。山入氏が室町幕府と結んで佐竹宗家の常陸守護職を奪い山入の乱(山入一揆)を起こしたこと、さらには、名目上傘下にあったものの実際には独立勢力であった大掾氏や那珂氏(後の江戸氏)の存在などもあったことから、佐竹氏の勢力基盤は脆弱であったと言える。こうした内紛もあり、戦国時代に突入した後も佐竹氏の常陸統一は困難を極め、戦国大名化も遅れた。

戦国時代
戦国時代になると、佐竹氏第15代当主で「中興の祖」と呼ばれた佐竹義舜が現れ、山入氏を討ち、常陸北部の制圧に成功した。しかし、相変わらず江戸氏は不穏な動きを続け、また関東の制覇を目指す北条氏の侵攻などもあって、常陸統一は非常に困難な状況にあった。

佐竹義舜の曾孫で、佐竹氏第18代当主の佐竹義重は「鬼義重」の異名をとる名将であった。義重の時代に、佐竹氏は江戸氏や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置くことに成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた。北条氏とは天正12年(1584年)に沼尻(現在の栃木県下都賀郡藤岡町)で対決した(沼尻の合戦)。また、奥州南部にも進出し、白河結城氏を下し、石川氏、岩城氏などを影響下に置き、三春城の田村氏と対抗する中で奥州国人の盟主たる地位を確立しつつあった。このため、義重の正室の甥にあたる伊達政宗と対立し、義重は蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と天正13年(1585年)人取橋(現在の福島県本宮市)で対決した(人取橋の戦い)。佐竹方は3万の大軍を率い、伊達方の10倍近い兵力を以ってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えたが、一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。

しかし、佐竹義重は戦国時代を通じて領国を拡大し、子の佐竹義宣の時代には豊臣秀吉の小田原の役に参陣して、秀吉の太閤検地の結果、常陸54万5800石の大名として認められた(ただし、常陸国内でも土浦城、下館城一帯は結城氏の所領とされた)。水戸城の江戸重通は小田原の役に参陣しなかったために所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移した。

慶長5年(1600年)、佐竹義宣は関ヶ原の戦いにおいて家中での意見がまとまらずに中立的な態度を取った。戦後処理は翌年にはほぼ終了し、慶長7年(1602年)の3月には義宣は上洛し伏見城で徳川家康に拝謁している。ところが、5月になると義宣は出羽国久保田(現在の秋田県秋田市)20万5800石(実高40万石)に減封の上で国替えを命じられる。関ヶ原の戦いにおいて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいたことが発覚したためと言われている。こうして佐竹氏は平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去った。

江戸時代以降

江戸時代を通じて久保田藩を支配する外様大名として存続した。元禄14年(1701年)に佐竹氏第21代当主で久保田藩第3代藩主の佐竹義処は弟の佐竹義長に2万石を、甥の佐竹義都に1万石を分与し、久保田新田藩として立藩させた(新田分知のため久保田藩の石高に変化はなし)。そのうち、佐竹義都を初代藩主とする久保田新田藩は、享保17年(1732年)に義都の子の佐竹義堅が久保田藩第5代藩主の佐竹義峯の嗣子となったために廃藩となり、封地は久保田藩に還付された。一方、佐竹義長を初代藩主とする久保田新田藩は、歴代藩主が壱岐守に叙せられたので佐竹壱岐守家とも呼ばれ、明治2年(1869年)に岩崎藩と改称した。

明治17年(1884年)、佐竹氏第30代、第32代当主で旧久保田藩主の佐竹義堯は侯爵に、佐竹壱岐守家(旧久保田新田藩)の当主の佐竹義理は子爵に叙せられ、明治22年(1889年)には佐竹壱岐守家の出身で義堯の養子となり一時的に宗家を相続した佐竹義脩が男爵に叙せられた。なお、家臣であった佐竹四家(東西南北家)に関しては、明治33年(1900年)に佐竹西家の佐竹義遵、佐竹南家の佐竹義雄、および佐竹北家の佐竹義尚が、明治39年(1906年)に佐竹東家の佐竹義準がいずれも男爵に叙せられた。東洋製作所の元社長の佐竹義利は佐竹東家の出身であり、現在の秋田市長の佐竹敬久は佐竹北家の出身である。

なお、佐竹氏宗家(旧久保田藩主)が伯爵ではなく侯爵とされたのは戊辰戦争において新政府軍に加わったためとする説があるが、実際のところは久保田藩の石高が表高に対して実高が多かったためである。

歴代当主
佐竹昌義
佐竹隆義
佐竹秀義
佐竹義重
佐竹長義
佐竹義胤
佐竹行義
佐竹貞義
佐竹義篤
佐竹義宣
佐竹義盛
佐竹義人(関東管領上杉憲定の次男で婿養子、正室は義盛の娘の源姫)
佐竹義俊(生母は源姫)
佐竹義治
佐竹義舜
佐竹義篤
佐竹義昭
佐竹義重
佐竹義宣
佐竹義隆(義宣弟岩城貞隆長男)
佐竹義処
佐竹義格
佐竹義峯(義処弟佐竹義長次男)
佐竹義真(義処兄佐竹義寘曾孫)
佐竹義明(佐竹義道長男、生母は義峯の妹の明鏡院、正室は義峯の娘)
佐竹義敦(生母は義峯の娘)
佐竹義和
佐竹義厚
佐竹義睦
佐竹義堯(相馬益胤三男)
佐竹義脩(義堯弟佐竹義諶長男)
佐竹義堯(再継承)
佐竹義生
佐竹義春
佐竹義栄

系譜
凡例 太字は当主、太線は実子、細線は養子。 
  源頼義
  ┣━━━━┳━━━┓
  源義家  源義綱  源義光
   ┏━━━━━━━╋━━━━┓
  源義業      源義清  平賀盛義
   ┣━━━━━┓
  佐竹昌義  山本義定
   ┣━━━┳━━━┓
  大掾忠義 隆義 義宗
       ┃
       秀義
       ┃
       義重
       ┃
       長義
       ┃
       義胤
       ┃
       行義
       ┃
       貞義
       ┣━━━┳━━━━━┓
       義篤  小瀬義春  山入師義
   ┏━━━┫   ┏━━━━━┫
  小場義躬  義宣  山入言義  山入与義
   ┃   ┣━━━┓     ┣━━━━━┳━━━━━┓
  小場惟義  義盛  義有    山入義郷  山入祐義  小田野自義
   ┃   |         ┃     ┣━━━━┓
  小場義信  義人       山入義信  山入義知  山入義真
   ┃   ┣━━━┓     ┃          ┃
  小場義実  義俊  実定    高柿久高       山入義藤
   ┃   ┃   ┃     ┃          ┃
  小場義忠  義治  義定    高柿康信       山入氏義
       ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━┓
       義舜                                義信(佐竹北家)  政義(佐竹東家)
   ┏━━━╋━━━━┳━━━━━┓                      ┣━━━┓    ┃
  今宮永義  義篤  宇留野義元  義里(佐竹南家)                義住  義廉    義堅
       ┃                                     ┃    ┃
       義昭                                    義斯    義久
       ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓        ┃
       義重                           義尚(義里養子)  義憲
  ┏━━━━╋━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━┓         ┃
  義宣  蘆名義広  岩城貞隆  岩城宣隆  義直  女子(高倉永慶室)  義種
       ┃    ┃        ┏━━━━╋━━━━┓    ┃
      蘆名盛俊  佐竹義隆    高倉永敦  佐竹義隣  佐竹義寛  義章
  ┏━━━┳━━━━━┻━━━━━┓       ┣━━━━┓    ┣━━━━━━━━┓
  義寘  義処           義長      義明    義秀   光聚院(義隆室)  義著
  ┃   ┣━━━┳━━━┓   ┣━━━┓        ┃
  義都  義苗  相馬叙胤  義格  義峯  明鏡院(義道室)  義本
  ┃       ┃       ┃            ┃
  義堅     相馬徳胤      女子(義明室)      義道(義長養子)
  ┃       ┃                    ┣━━━━━━━━┳━━┳━━━━┓
  義真     相馬恕胤                   義明       義敏  義忠  蜂須賀重喜
          ┃                    ┣━━━━┓   ┃  ┃
         相馬祥胤                  義敦    義方  義祇  義恭
    ┏━━━━━┫                    ┃    ┃   ┃  ┃
   相馬樹胤  相馬益胤                   義和  那須資礼  義知  義純
   ┏━━━━━━┻━━━━━━━━┳━━━━┓      ┃
  相馬充胤            佐竹義堯  佐竹義諶    義厚
   ┣━━━━━┳━━━━┓    ┃    ┃      ┃
  相馬誠胤  佐竹義理  相馬順胤  義生    義脩     義睦
   ┃     ┃    ┃    ┣━━┳━━━┓
  織田信恒   義種   相馬孟胤  義春  義通  義勝
                   ┃
                   義栄

佐竹氏家臣団
小貫頼久
和田昭為
岡本禅哲
岡本顕逸
岡本宣綱
梅津憲忠
梅津政景
真壁氏幹
渋江政光
須田盛秀
車斯忠

関連項目
久保田藩
常陸源氏
佐竹寺
奥州藤原氏
奥州合戦
藤原清衡…佐竹隆義の外祖父
大掾氏
守護
鎌倉府
関東管領
上杉氏
関東八屋形
御酒之日記
山入氏
小場氏…子孫は佐竹西家
江戸氏
大森氏
小田野氏
小貫氏
小野崎氏
高柿氏
長山氏
根本氏
武士氏
茅根氏
蘆名氏
岩城氏
多賀谷氏
宇都宮氏
雪村
高倉家
戊辰戦争

2009年01月21日

ノルウェーのテレマーク地方が発祥

ジャンプは、1840年ごろのノルウェーのテレマーク地方が発祥の地とされる。スキーで遊んでいるうちに自然発生的に競技となったという説がある。 1860年代、初期の著名なジャンプ競技者は、テレマーク出身のノルトハイム (Nordheim) であった。 ジャンプを含むノルディックスキーがテレマーク地方を中心に発達してきたため、最も美しいとされ高得点に結びつく着地時の姿勢は、前述のように「テレマーク姿勢」とよばれている。なお、同様の姿勢によって、テレマークターンを行い斜面を滑降する技術・スタイルはテレマークスキーとよばる。また、テレマークという名は、スキースタイル(特に用具の面)において、ノルディックの別名として用いられることもある。 1877年には、最初のジャンプ競技会がノルウェーで行われた。 1879年には、テレマーク地方にいた靴屋の少年ジョルジャ・ヘンメスウッドがクリスチャニアのヒューズビーの丘で23m飛んだという記録が残っている。

飛型の歴史
飛行姿勢については、歴史的な変遷が存在する。

初期は直立不動の姿勢であったが、1920年代には、ヤコブ・チューリン・タムス(ノルウェー)に代表される、腰を曲げて前傾姿勢を取るタムス型と、ナルヴェ・ボンナ(ノルウェー)に代表される、直立状態のまま前傾するボンナ型という2つの前傾姿勢が広まり、とりわけタムス型はその後戦後直後まで多くのジャンパーが取り入れていた。いずれの型においても、腕は、バランスを取るために回していた。

1950年代前半からは、フィンランドのアンティ・ヒバリーネンのような、手を動かさず体に付け、深い前傾姿勢を取るスタイルが定着し、このスタイルはその後長らく基本的なフォームとして1990年頃まで主流であった。その中で、1960年頃には、この年のスコーバレーオリンピックで優勝したヘルムート・レクナーゲルなど、両手を前に出して止めるスタイルも生まれたが、その後の五輪では勝てず、このスタイルは自然消滅した。

20世紀後半までは、気をつけの姿勢でスキーを揃え、横から見ると、胸から上とスキーが平行になるのが理想とされていた。札幌冬季オリンピックで、笠谷幸生、金野昭次、青地清二の日本人3選手がメダルを独占した際には、この飛型であった。また、1970年代までは、アプローチの際に両腕を前に下げるフォアハンドスタイルが主流であった。

1976年頃、東ドイツのアッシェンバッハ選手が、アプローチを滑走する際、中腰で両手を平行に後ろへ揃えるスタイルを始め、当初アッシェンバッハスタイルと言われた。現在ではバックハンドスタイルと言われスタンダードな姿勢となっている。それまではしゃがんで手を前にして握るような姿勢が一般的であったが、これは、これが一番空気抵抗が少なく、速度が出ると思われたからである。

20世紀終盤には、スウェーデンのヤン・ボークレブ選手がV字飛行を始めた。V字飛行は、それまでの板を揃えて飛ぶ飛型よりも前面に風を多く捉えて飛距離を稼ぐことができたが、当初は飛型点で大幅な減点対象になり、上位に入るには他を大きく引き離す飛距離が必要だったが、他の選手も次第に取り入れるようになり、その後規定が変更され減点対象から除かれた。クラシックスタイルからV字への転向には、日本やオーストリアは早く対応できたが、フィンランドなどの強豪国は転向に乗り遅れ、一時低迷することとなった。しかし、V字時代最初のオリンピックとなったアルベールビルオリンピックでは、唯一V字をマスターしたトニ・ニエミネンを擁するフィンランドがオーストリアを下している。

追記
かつて、日本の体育関係の書物でさえ、「この競技の起源は、ノルウェーの処刑法にある」などとされ、広く信じられてきたが、これは俗説である。これは、ジャンプが、他のどのスポーツ競技と比較してもあまりにも恐怖感を伴うものであったため、重刑囚がこのジャンプをクリアできれば、その刑を軽減されるというものであり、いまだこの説を真実だと思っている者も多く存在している。

女子選手の進出
近年、オーストリア、ドイツ、ノルウェー、日本などで、ノーマルヒルを中心とした女子選手の増加に伴い、ヨーロッパなどで女子の国際大会が頻繁に開催されるようになってきた。1999年からは、国際ツアー(現在はコンチネンタルカップに格付けされている)も実施されている。

世界選手権では、2009年リベレツ大会よりノーマルヒルでの個人戦の実施、2011年大会より国別団体戦の実施が決定した。

これによって、オリンピックでの採用の可能性が十分ありうる状況となってきたが、2006年11月、国際オリンピック委員会の理事会は、2010年バンクーバーオリンピックの競技種目として見送ることを決定した。このことが関係者の批判を呼び、アメリカが中心となって見送り決定の撤回を求めて告訴した。しかし、定期的に国際競技に参加する女子選手が世界に約80人しかいないことから、IOCのロゲ会長は「普通どの種目でも数十万人から多くて数千万人の選手人口がおり、非常に高いレベルでメダルが競われている。結論としてメダルの価値を下げたくない、安売りをしたくないということだ」と否定的な考えを述べている。
マルバタ クロスレ シュール しばざくら アスク たいざん ロスカ チーズ 白爵南瓜 モルガ ユーボ 冬の星座 ライオン いろはに ピーク ハスカ リッペ リーズ ダイヤ 雪の駅 マネタ ファース グラス おくやま スピンオフ スカッド レンジャー レジスタ バルキー 寄居かぶ メキシコ へきぎょく ダージジ パサク はま スティン つるむら 京野菜 コリンズ プール ギミッ デカル マンネリ ハイガイド トークッシ ロンティー サイトバラ メガ最適 ミズム どうちゃく

日本選手のジンクス
過去日本人選手は、オリンピック、世界選手権において多くのメダルを獲得しているが、90m級(現在のラージヒル)では長い間金メダルを獲得できず、日本選手の鬼門とされていた。1968年グルノーブルオリンピックの藤沢隆、1972年札幌オリンピックの笠谷幸生は、いずれも1回目に2位の好位置につけながら2回目に距離を伸ばすことができずメダル獲得を逃し、1992年アルベールビルオリンピックでは原田雅彦が4位、1994年リレハンメルオリンピックでは岡部孝信がまたしても4位とあと一歩メダルに届かなかった。

しかし、1997年トロンヘイムの世界選手権で原田雅彦が、1998年長野オリンピックでは船木和喜が、ラージヒルで金メダルを獲得し、現在では、ラージヒルに対する苦手意識は払拭されている。むしろ近年では、かつて日本人選手が得意とされていたノーマルヒルに苦手意識を持つ選手も多くいる。

また、ジャンプ週間が開催される4箇所のうち、最終戦が行われるビショフスホーフェンのみ、未だに日本人選手の優勝がない。