305年3月1日、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスは揃って引退した。これはマクシミアヌスが望んだ行動で無いことは明らかで、ディオクレティアヌスが強いたことだった。マクシミアヌスアはカピトリーノのユピテル神殿において、同僚と共に引退するという誓言を立てた。コンスタンティウス・クロルスと(東の)ガレリウスとが新しい正帝となり、フラウィウス・ウァレリウス・セウェルスとマクシミヌス・ダイアとがそれぞれの副帝となった。マクシミアヌスはルカニアかカンパニア辺りの自領地で引退生活を送った。
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2度目と3度目の皇位復帰
翌年コンスタンティウスが亡くなり、マクシミアヌスの息子マクセンティウスが西ローマ帝国を掌握した(306年10月28日)。対外的に正当性を繕うために、マクセンティウスはマクシミアヌスに正帝を名乗らせた。マクシミアヌスはセウェルスとガレリウスを戦いで破り、コンスタンティウスの息子コンスタンティヌス1世に娘ファウスタを嫁がせることで味方につけた。
しかし、このときのマクシミアヌスの役割は、真の権力者マクセンティウスを覆い隠すことだった。そして308年、老巧な正帝マクシミアヌスは実の息子に反乱し、ローマに向けて軍を進めたが、敗れ去った。ディオクレティアヌスはマクシミアヌスに援軍を送ることは断り、カルヌントムで会合し、マクシミアヌスにコンスタンティヌスを連れてガリアに逃避させた。
310年、コンスタンティヌスがフランク人の反乱を鎮圧するために軍団の一部を連れて行ったとき、マクシミアヌスがまたしても紫の帝衣を纏う機会が訪れた。マクシミアヌスは恩賞金(donativum)によって軍団を手なずけ、3度目となる皇帝を名乗った。しかし、コンスタンティヌスはすぐに引き返しアレラーテにて義父を包囲し、これにマクシミアヌスは持ちこたえることができなかった。マクシミアヌスはマッシリアに逃亡したが再び敗れ、牢に入れられ退位した。
最期
マクシミアヌスは紫の帝衣は剥奪されたが、コンスタンティヌスに対し反乱したことは恩赦を得て、彼の宮廷に居住することを許された。
後にマクシミアヌスは、コンスタンティヌスの暗殺を企てたことによって命を落とした。マクシミアヌスは娘のファウスタに暗殺を手伝わせようとしたが、ファウスタは夫のコンスタンティヌスにこの企てを暴露したため、計画が露見した。自殺か暗殺かは不明だが、マクシミアヌスは同じ310年の6月に死亡した。
称号
マクシミアヌスは自身や同僚の戦勝の功により次の称号を得た:5回の征ゲルマン将軍(Germanicus Maximus V;287年に2回、288年、293年、301年)、3回の征サルマタイ将軍(Sarmaticus Maximus III;289年、294年、300年)、征アルメニア将軍(Armeniacus Maximus、298年)、征メディア将軍(Medicus Maximus、298年)、征アディアバネ将軍(Adiabenicus Maximus、298年)、2回の征ペルシア将軍(Persicus Maximus II、295年、298年)、征カルピ将軍(Carpicus Maximus、297年)、征ブリタンニア将軍(Britannicus Maximus、297年)
また、マクシミアヌスは執政官に9回選出された(287年、288年、290年、293年、297年、299年、303年、304年、307年)。